ドイツ病の現在(いま)

戦後の旧西独と日本の間には、いくつかの共通点がある。両国とも戦後めざましい経済復興を遂げ、輸出大国となった。一九九0年代前半から、深刻な経済停滞による「失われた十年」を経験したことも似ている。

だが日本経済の低迷がバブル崩壊に端を発したのに対し、ドイツ病の主因は、高福祉による人件費の高騰や高い税金だった。東西ドイツ統一による負担も、症状を悪化させた。

ドイツ病の最も顕著な症状は、大量失業だった。一九九四年から十二年間にわたり、平均失業率は十%を超え、二00五年の冬には、約五百二十九万人が路頭に迷った。ドイツの労働コストと法人税率は、世界で最も高い部類に属する。

多くの企業が、人件費を減らすために、工場や経理部門を東欧に移したために、産業の空洞化が進んだ。二00五年の経済成長率は0・九%と、
EU(欧州連合)で最も低い国の一つとなった。

旧東独は、未だに経済的に自立することができず、政府は毎年国内総生産(
GDP)の約五%を、東側に注ぎ込んでいる。人口の高齢化と少子化も急速に進んでいる。私は十七年前からこの国で病状を観察してきたが、その結果を去年夏「ドイツ病に学べ」(新潮選書)という本の中で報告した。

メルケル政権は、前のシュレーダー政権が始めたドイツ病の治療に全力を上げている。具体的には、公的年金の大幅な削減、健康保険制度の見直しなど、戦後最も抜本的な改革措置を次々に実行した。

一連の荒療治は今年に入って、実を結び始めた。企業がリストラにより、収益を改善させたことも追い風となった。今年六月の失業率は八・八%に下がり、失業者数は四百万人を割っている。政府は今年度の成長率が四%に達するという楽観的な見通しを明らかにしている。

だがドイツ病の治療は、社会の格差を広げつつある。政府は企業の競争力を強めるために、法人税率の大幅引き下げを発表し、財界を喜ばせた。逆に、今年から付加価値税を十六%から十九%に引き上げ、庶民の負担を増やした。

失業給付金の額も、生活保護と同水準に引き下げられた。長期間にわたり失職している市民の間では、雇用状況は改善しておらず、生活水準は悪化している。日本と同じく、ドイツ企業も契約社員の比率を増やしている。

現在最も積極的に雇用を拡大しているのは、人材派遣会社だ。年収が百万ユーロ(約一億六千八百万円)を超える市民の数は、一九九五年からの十年間で七十三%も増えた。一方生活保護受給者の数は、二00三年からの三年間で四十三%増加している。

戦後西独は、米英の純粋資本主義とは一線を画し、政府が準備した枠組みの中で企業が競争する「社会的市場経済」をモットーとしてきた。そこでは、弱者救済のための社会保障制度が、重要な柱だった。

統一後のドイツ政府は、過度の国家依存症がドイツ病の原因になっているとして、社会保障にナタを振るった。市民や左派政党の間からは、「社会的公平を回復するべきだ」という声が上がっている。

毎年帰国するたびに、日本がドイツを上回るスピードで格差社会になりつつあることを感じる。

格差の拡大による、価値観の劣化も深刻だ。ドイツ病が最も深刻な時でも、毎年約三万人が自殺したり、凶悪犯罪や引きこもりが急増したりすることはなかった。日本ではドイツほど社会保障による安全ネットが整備されていないため、格差拡大の副作用もより重篤だ。ドイツではキリスト教的な倫理観が、危機の際にも市民の行動を律するが、日本ではそうした価値観が存在しないことが、事態を深刻化させている。

責任意識の欠如も、ドイツ以上に深刻だ。五千万人分の年金記録が宙に浮くという未曾有の不祥事は、ドイツとは異質の「日本病」の進行を示す症例ではないだろうか。「痛みを伴う手術」が必要なのは、ドイツだけではない。


毎日新聞 文芸欄 2007年7月23日